第一種放射線取扱主任者の勉強法 ~ぐーたらチャンマーの勉強箱~

半減期の語呂(ゴロ)合わせや放射線に関するコラムを書いています。一緒にお勉強しませんか?

3月11日in東海村

平成23年3月11日  16:00頃

さて東海村受講記の最終日の続きです。

突然の地震(震度6弱)に見舞われ放射線取扱主任者の登録講習も急遽終了となり、現実感のないまま皆帰路に着き始めました。

ちなみにこのときは、ケータイ(Softbank)はまだ使えていました。
宮城の実家に「大丈夫?」とメールしても、「揺れたけどケガはないよー」と返事が返ってきましたし(ちなみに実家は震度7)、夫に電話したりする余裕もありました(自宅は震度3)。
このころ既に電車が止まっているという情報はあったのですが、まだ大変なことが起きているという認識はなかったです。
「なんか研修終了になったけど飛行機のチケットは明日だから予定通り寮に一泊してから帰るわー」などとのんきに答えていました。

その後国道245号線を歩きながら宿泊施設(原研の真砂寮)に向かって歩き始めましたが、ものすごい渋滞。
その理由はところどころ三角に盛り上がった道路でした。
写真はこちら↓
douro
こんな場所がたくさんあり、そこが一車線の交互通行になるので渋滞していたのです。
「ぉおーなんじゃこりゃー」と無邪気に写真をとる私…。このあと停電でどこでも充電できず、携帯がまったく使えないと言う緊急事態になって本当にバカな自分を呪いました…。


まあどっちみちこの日の夜からはケータイ自体が電波を拾わず全く繋がらなくなってしまったのですが、ケータイの充電が
切れちゃうと電話帳などの様々な情報も消えてしまうんですよね。私は時計も持ち歩かないので時間もわからないですし。
自宅と実家の番号は暗記していますが、あとはあやしい…。紙のアドレス帳はやはり大切なんだと痛感しました。


その後寮についたら案の上真っ暗で、建物はひびだらけだし、管理人さんから倒壊の危険性があるので避難所へ行って欲しいと言われ、食堂に行ったが電気ガス水道全部止まってるし食材が届いてないから今日はご飯だせませんと言われて、初めて「これはやばい」と思ったのです。(遅すぎ?)


どうやら泊めてもらえないことがわかったので、一緒に講習をうけた人たち数名と寮から一番近い村松コミュニティーセンターというところに向かいました。
ちょっと記憶があやふやなのですが、私はこの頃、橋を渡ったときに川の水が下流から上流に流れて行くのを目撃しています。(見たのは確かだが、いつ見たかがよく覚えていない)
その状況でも、「地震=津波」という全く無く、またそういう危機感を持っていた方も回りに誰もいませんでした。
「わー川が逆流してるよ!」とか言ってました。

10分ほど歩いて着いたコミュニティーセンターというのは公民館のようなもので、小さい体育館と、会議室が数室あり、ここも何もわからない状況は変わりませんでしたが、建物の外に地元の消防団の方(?)達がテントを張ったり火を起こしたりしていて、既に避難して来た方たち100~200名くらいが集まっていました。

この日はここで毛布一枚借りてて体育館の床に寝ました。夜10時くらいに2人に1本ずつ500mLのミネラルウォーターとアルファ米のピラフを配給してもらいました。
アルファ米というのは↓こんな食べ物で、
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お湯を入れれば20分で食べられるのですが、水の場合は1時間待つのです…。お昼のお弁当を食べたのが最後なので、すでに10時間以上何も食べていないことになり、気付けばとても空腹でした。50分くらいで待ちきれずに食べちゃいましたが、なかなかおいしかったです
中にスプーンも入っててとても画期的だと思いました。


夜は本当に寒かった・・・。体育館に1台だけ、大きいストーブがあったのですが、それだけでは当然あたたまることはなく、時々くる余震におびえながら靴を履いたまま眠るというのは、なかなかきつかったです。

また、この日の記憶として、星がものすごくきれいに見えたことを思い出します。
広い範囲が停電しているので、きっとよく見えたんでしょうね。
日本中で、多くの人が不安を抱えながら夜空を見上げた日・・・。
夜はしんしんと更けていきました。

[ 2012/02/16 18:45 ] 東海村被災記 | TB(0) | CM(0)

3月12日in東海村

3月12日 朝6時

夜中に夫と公衆電話で話をしたところ、「常磐線は動いているらしい」との情報を得たため、私と講習仲間2名で東海駅に向かって徒歩で出発。
5キロの道のりを1週間分の着替えと研修資料などがつまったトランクを引いて歩いて行きます。
アイソトープ法令集とか無駄に重たい本まで念のため持っていってしまったことを激しく後悔…。何度捨てようと思ったかわかりません。

観光マップ頼りに選んだルートが悪く、完全な山越えとなり、また道路も陥没や隆起していたためトランクを引いて歩くのはかなりきつかったです…。
写真はこちら↓

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道路だけではなく歩道まで凸凹です。

東海駅前のイオンが遠くに見えてきたあたりで、親切なおじさんが車に乗せてくれました。
おじさんに自分は宮城出身で原研に研修に来ていて帰れなくなったという話をしたら、かなり同情した感じで、「東北のほうは大変みたいだよ。街が壊滅してるみたいだ。」としんみりしていました。そして、この車中で震災後初めてラジオを聴きました。流れていたのが「仙台の荒浜で100人から200人の遺体が…」というニュースだったのですが、はっきり言ってまったく状況が理解できませんでした。
地震と津波を結びつける思考回路がないので、「北朝鮮で内戦があって遺体が流れてきたのかな?でもそしたら日本海側につくよね?なんでだろ~」って思っていました。(こうやって書いていると本当に私はにぶいですね・・・)


そしていざ東海駅につくと、駅舎は天井が落ちていて、映画みたいな黄色と黒の「立ち入り禁止」のテープが貼られており、全く動いていませんでした。夫から聞いた情報は間違っていたのです・・・。壊れた駅の前に一人立っている駅員さんにおそるおそる「何時から動きますか…?」と聞くと「動きません。駅舎も線路も壊れているのでしばらくは再開しません」と言われ呆然・・・。
途方にくれているとさっきの親切なおじさんがもう一回車に乗せて、別のコミセンにつれていってくれました。
実際このあたりの電車が再開したのは4月になったようで、ここで待たなくて正解でした。


今度は舟石川コミュニティセンター(通称 舟コミ)です。昨夜とまった村松コミセンに比べると東海駅に近いので、こちらの方がよいだろうと親切おじさんが連れてきてくれました。(ちなみにおじさんも原研の方でした。本当にお世話になりました)
舟コミのHPをみつけたのでよかったら見てください。こちら 舟石川コミュニティーセンター
ここの会議室3に寝ました。なんか今みると懐かしい気持ちです。どの部屋もいっぱいで、図書室の本棚の間にも毛布を敷いて寝ている人がおり、とてもにぎわっていました。

こちらのコミセンはかなり機能していて、まず朝に一人1本ミネラルウォーターとおにぎり1個がもらえました。(赤ちゃんのにぎりこぶしくらいの)あと、みそしる(みそをお湯でとかしたもの、具なし)も紙コップで配られていました。(こちらは激戦でもらえず)

また、ここにはなんとテレビ(映像は写らないが音は出る)があり、かなり情報収集が進んでいました。声しか聞こえない砂嵐のテレビの前で、多くの人が耳をすませていました。
東海村は日本でも有数の原子力村ですので、多くの方達が心配しているのが原発・放射能関係のニュースでした。
東海村のコミュニティセンターには、放射線や原発について啓蒙するパンフレットがおいてあり、中には非常事態にどうするか、といったものもありましたので私も熟読しましたが、さすがにこんな事態は想定されておらず・・・。
でも、テレビがあってニュースが流れていたことで、日本が壊滅したわけじゃないんだとわかってホッとしました。

また明日に続きます。

イラストは東海村を歩くチャンマーの図です。寒いので服をすべて着て、首にタオルを巻いて歩いていました。
tokai.jpg

[ 2012/02/17 18:00 ] 東海村被災記 | TB(0) | CM(0)

3月12日in東海村(つづき)

3月12日 昼

さて、舟石川コミュニティセンターに腰を落ち着け、この日寝る場所は確保できたので次は食料確保のため近くにあるコンビニに向かいました。
そしたらすごい行列…

コンビニも電気が止まっているのでレジが打てず、入り口でお客さん一人に店員さん一人がつき、買うものと金額を店員さんがメモ帳に書いていき、最後にレジで電卓で清算、という恐ろしく手間のかかることをしていたため、お店に入るまでに3時間くらい並びました。(ここで私は生まれて初めて立って寝るという体験をしました。)

店員さんが二人しかいないのでお店に入れるのは二人まで・・・しかも10点までの制限あり。お店に入る前に、電池やカセットボンベなどの緊急時に必要なものは全て売り切れていました。私が買ったものは、カイロ、ウエットティッシュ、お茶などのペットボトル、バームクーヘンなどの菓子などです。

コミセンに戻ると外には水の配給を待つ人々が列をなしていて、給水車だけでなく、隣を流れる川からポンプで汲んだ水も
生活水として配られているようでした。


夕方ころに一人1枚食パンの配給。
一緒に避難している講習仲間と食パンをもさもさかじりながらどうやって東京まで戻るか計画を立てます。
電車、バス、常磐道がすべて駄目らしいということで、結局一般道をタクシーで脱出する計画をたてて近くのタクシー会社に電話してみたがどこも繋がらず…
(昨日まではお金かテレホンカードを入れないと使えなかった公衆電話が、この日は無料で使えるようになっていました。本当にありがたかったです。しかし、家族と連絡を取りたい人が行列を作っているので、一度電話をかけるのに1.2時間は並ばなくてはいけませんでした。)
何度も並びなおして二つ隣の市の個人タクシーにやっとつながり迎えに来てくれるよう頼むも、クレジットカードが使えなくなっているので現金払いのみ、しかも東京までは道が大渋滞しているのでどれくらいかかるかわからないといわれ…所持金1万のチャンマーはもう打つ手がなくなり。。。


水戸まで歩こうと決意。(16キロ)


次の日の早朝出発と決め、早々に眠りについたのでした。



※東海村の震災後の様子を掲載しているサイトをみつけました。
震災後の東海駅や虚空蔵堂(寮の隣)などの写真も載っていました。→地震後茨城の状況 東海村
一日も早い復興を心より願っております。


[ 2012/02/18 12:17 ] 東海村被災記 | TB(0) | CM(0)

3月13日in東海村

3月13日 朝6時

「おはようございます…」との声で目覚めると、そこには講習を一緒に受けていた学生さんのお父様が
息子さんを心配して、遠くから車を飛ばして迎えに来てくれたのでした。
そしてご厚意により私も東京まで同乗させていただけることになり、あっけないほど簡単に被災生活は終わりを告げたのです。

お世話になったコミセンの方々に御礼を言い、避難者リストの自分の名前の横に「帰宅」と書いて、予定より1日遅れで東京に向かいました。

東海村では全ての信号が消えていたので、途中から信号がついた時には「おおっ!」と思いました。
さらに東京に近づいていくと営業しているお店が増えてきて、都内に入った時には普通の状態に見えました。
羽田空港ではきれいな店員さんがいるきれいなお店がきちんと営業していて、試食品もあって、昨日コンビニに3時間並んでバームクーヘン買ってたことが信じられないくらいでした。

そして…地震後初めて映るテレビを待合室で見て、腰を抜かすくらい驚きました。
私の育った街が津波に飲み込まれる映像が流れていたからです。
なんというか…あのときの気持ちは表現できないですね。

あの日からもうすぐ1年が経とうとするというのに、いまだ避難者の数は34万人を超えています。
一日も早く復旧し、皆様に心穏やかな日が戻りますことを心よりお祈りいたします。




最後に、私信を書かせてもらいます。


震災後の避難生活でともに行動してくれた受講仲間のSさん、Kさん(注:助さんと格さんではありません)、
本当にありがとうございました。
あのとき御礼もきちんと出来ず、連絡先も聞かぬまま東京で別れてしまいましたが、無事家に帰って子供達に会えました。
宮城の実家の家族もなんとか無事でした。
お二人が一緒に行動してくれたおかげで、心細い避難生活でも泣かずにいられました。
本当にありがとう。
避難所で大富豪(トランプ)をしたことも、今は良い思い出です。
お互い、立派な放射線取扱主任者になろうね。



[ 2012/02/18 20:10 ] 東海村被災記 | TB(0) | CM(0)
プロフィール

チャンマー

Author:チャンマー
地方都市で2児の子育てに追われる30代主婦が、
限られた時間の中で,どうやって勉強して第1種放射線取扱主任者の資格取得をしたかを書いていきます。
いっしょにがんばりましょ~!

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